スポットライトが照らす最高のステージ
レフェリーとしてNBAに挑戦 第2回

2019年07月10日



文と写真:皆人公平/写真:大澤智子

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上田篤拓。静岡県出身の41歳(1978年5月生まれ)。JBA(日本バスケットボール協会)審判グループ シニアテクニカルエキスパートの肩書と合わせ、FIBA(国際バスケットボール連盟)レフェリーインストラクターの要職も務める。インタビューをお願いしたのは、ほんの短い立ち話がきかっけだった。「NBAで笛を吹きたかったんですよ」というひと言を聞き、“!”……プレーヤーだけではなくても、世界最高峰のコートに立つ夢を追う……そのアプローチに興味が湧いた。

第2回 日本で気づいたモチベーション
 NBA挑戦のためには、プロリーグでのレフェリングを2シーズンは経験しなければならない。そんなルールが出来上がりつつあったことから、日本で立ち上がったプロリーグ、bjリーグでキャリアを積むために帰国した。自分の地盤はあくまでアメリカ、そう考えていたものの、bjリーグでの経験がその後の活動に変化を与えることになる。

 「それまではNBAのコートに立つ、サマーリーグで笛を吹くというのが目標になっていて、当然教わる一方でした。それが今でも自分の土台になっているのは間違いありませんし、これまでの糧にもなっている。
 ですが、bjリーグに参加させてもらったら、初めて伝える側になりました。それで、もっと自分のキャリアを高めなければならない、スキルを磨かなければならない。『教える、伝える』ということはとても難しいことだと感じました。学ぶ側ならひたすらインプットするだけ。でも、アウトプットは難しくて、とても意義深いものでした。
 bjリーグでの1~3年目ぐらいはある意味、中身の濃い時期。学ぶ立場から、それまでの知識や経験を伝える立場になり、新たなモチベーションに気づきました。bjリーグで自分の姿を見てもらっていましたが、どう見えているのかを考え、伝えるためにはどういう言葉をチョイスすればいいのかを意識し始めたんです。教わってきたことが、実際に身についているかを確認する大事な時期となり、そのお陰もあって、NBAサマーリーグにつながったわけです」。

 bjリーグでの経験を踏まえ、運も味方にして念願だったサマーリーグに招聘された。その時のことは鮮明に覚えているという。オフの間にアメリカへ戻り、いつものようにキャンプに参加していた。

 「NBAの審判を統括するセクションから、『サマーリーグに来ないか』って電話がありました。嬉しかった……。帰国予定日より後にサマーリーグがあったんですが、帰国を遅らせてサマーリーグに参加しました。やっぱり緊張しましたね。選手のトライアウト同様、ここが勝負の場。5~60人いる中で、1人か2人しか契約されない世界です。選手よりも厳しく、欠員がなければ新規の契約はありませんし、一定数を確保できれば、それ以上増やす必要がありませんから。チャンスに賭ける想いは強く、特別な雰囲気がありました。
 今はもっと厳しくなっていて、Gリーグを経験しなければダメ。Gリーグで笛を吹くまでに何年もかかるし、NBAの指定したリーグでキャリアを積まなければなりません。キャンプに参加して、人脈を開拓するなどさまざまな努力の先に、ようやく声がかかるチャンスがある、それがNBAレフェリーになる唯一の方法なんです」。

 高校生で審判の面白さに目覚め、そこからキャリアを積みながらサマーリーグへ。ここまで来れば、また大きな達成感があるだろう。日本で気づいた、新たなモチベーションを胸に一歩ずつ前へ進むことができたに違いない。

 「当時の自分と会話ができたら、『よく頑張ったな』って今考えると少しは思えるかなぁ(笑)。でも、そこから先がまだ長くて、高いハードルもある。ゴールだと思ったこともあるけど、スタートラインなんだと強く感じました。本当はそこでまた、新たなスタートを切りたかったんですが、僕自身、さまざまな変化があり、bjリーグをはじめ、その後はB.LEAGUE、JBAとの関りが深くなっています。現在の役割にやりがいや生きがいを見つけていますから、NBAは心の片隅にありながらも、新たなテーマがモチベーションになりました。自分が学んできたことを、日本のバスケットボール界に少しでもフィードバックして、さらに国内のレフェリーファミリーがそれを将来に向けて磨いていってくれる、そんなことを大切にできるようになりました」。

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プロとして求められるもの
 日本で、プロとして笛を吹くことで感じたことはあるのだろうか。アメリカで目指したレフェリングとの違いやフィードバックすべきことは何だと考えているのだろうか。

 「僕の場合、日本でのキャリアはbjリーグがスタートです。bjリーグが盛り上がって欲しい、バスケ人気が高まって欲しいという気持ちが強かった。お客様に楽しんでいただきたいし、そのためにはどういうレフェリングが求められていて、バスケそのものの面白さをどう伝えていけばいいのかを考えていました。プロリーグですから競技的な観点と並行して、提供する商品としての観点、スポーツビジネス的な観点など、どういうアプローチが必要なのかを意識しましたね。
 例えばルールやレギュレーションの変更があったとします。それをメディア側から見れば、ここが変だよ、とか、クラブのオーナーやスポンサーからは別の視点からの意見が出る場合も。そういうものを受け止めながら、ルール・規則として文字に落としていきます。出来上がったものを理事会に諮り、実施するしないが決まっていきますが、そんな役割を任されていました。
 今はベースがNBA(bjリーグ)から、FIBA(JBA、B.LEAGUE)に変わったということ。bjリーグのスタート当初はメディアや色々な方と知り合い、いろいろな会話をし、身近な存在として一緒にやってきた感がありましたから、それがオリジナルのルール、レフェリングにつながったと思います。それらの経験は、今も各都道府県協会の審判員に伝えています」。

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 プロリーグとして発足したB.LEAGUEは3シーズン目を終えた。現在の役割を踏まえ、どんなレフェリングが求められると感じているのだろうか。

 「企業スポーツからプロスポーツへシフトすると、(レフェリーが)説明するべき相手が変わってくると思います。たくさんのお客様が来てくださり、スポンサーがクラブを支えてくださる。バスケのレベルが高くなったとしても、観客席がガランとしていたら悲しいですし、競技力もビジネスとしても伸びないでしょう。多くのメディアがスポットを当て、大勢の観客の目がコートに注がれるようになりました。以前ならコート上のことは、コーチ、プレーヤー、審判の関係性のみで完結していたかもしれません。今は色々な変化と共に、説明すべき相手がお客様だったり、メディアだったり、スポンサーだったりと変わってきている。そこに透明性がなければ、審判自体の競争力も上がらないし、ゲームに対する理解力も上がりません。
 それらの変化を理解し、多くのみなさまにどのように支えられてこのゲームが成立しているのかがわかっていないと、トップレベルでの審判は務まらないと思っています。だから、誰(お客様やメディア、スポンサー、クラブ関係者など)と出会っても、その出会いを大切にしなければならないし、その人たちがどういう考えを思っているのか、その背景に思いを馳せることも必要でしょう。だからと言って白を黒と判定することはありません。白なら白、黒なら黒と判定したジャッジに対して、相手が『どうして?』と説明を求めたら、それを正面から、自信を持って説明できるようになることが重要です。単に競技としてのバスケットではなく、例えば商品という置き換えをして考える。そういう意味では、大学で学んだマーケティングの知識なども(自分の)背景にあるからだなと感じています」。

 プロとしての自覚を持ち、日本とアメリカでキャリアを重ねる中、国内の審判のあり方に一石を投じる役割を担うようになった。最終回「次へつなげていくこと」に続く。