スポットライトが照らす最高のステージ
レフェリーとしてNBAに挑戦 第1回

2019年07月08日



文と写真:皆人公平/写真:大澤智子

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上田篤拓。静岡県出身の41歳(1978年5月生まれ)。JBA(日本バスケットボール協会)審判グループ シニアテクニカルエキスパートの肩書と合わせ、FIBA(国際バスケットボール連盟)レフェリーインストラクターの要職も務める。インタビューをお願いしたのは、ほんの短い立ち話がきかっけだった。「NBAで笛を吹きたかったんですよ」というひと言を聞き、“!”……プレーヤーだけではなくても、世界最高峰のコートに立つ夢を追う……そのアプローチに興味が湧いた。

第1回 NBAレフェリーへのアプローチ
 静岡という土地柄と、『キャプテン翼』世代だった(本人談)ことから、子どもの頃夢中になったのはサッカー。それでも親がバスケ選手だった影響からか、体育の授業でバスケをやった際、「そこで活躍できたんです。単純だから、(中学では)“バスケをやろう”って」。部活に加えて近所のバスケ教室にも所属するなど、どんどんバスケにのめり込んでいった。

 「他校の生徒と一緒にプレーしたんですが、彼らとは今でも仲がいいんです。高校でもバスケを続け、県大会でベスト4かな、チームとしてはもう少しで全国大会に行けそうなぐらいの結果でした。バスケット教室の仲間の多くが、県立静岡東高に進学したのでチームとしてまとまっていましたし、みんなインターハイを目指していました」。

 と、ここまではよく耳にするバスケ少年のストーリー。ところが、その先の進路においてはすでにアメリカ留学を第一に考えており、将来はバスケに関わる仕事に就きたいと思っていた。その背景にあったのは、「母方の親類がアメリカに住んでいて、子どもの頃から行き来していたんです。向こうでビジネスをしていて普通に生活している。それを見ていたので、アメリカで生活することに違和感がなかったというか、自分も大学はアメリカへ、と考えるようになりましたね。高校生の頃から審判をやっていたので、『どうせやるならNBAで吹いてみたい』というのが、大きな理由のひとつでした。最初は、本当はコーチを目指していたんです。高校在学中、ミニバスチームのお手伝いをしていて、帯同審判を任されるようになりました」。

 もともとはコーチ志望だったものの、審判も務めるようになり、当初は嫌々(?)だったはずが、少しずつ審判の面白さを感じ始めたという。

 「高校生なので、いろいろ言われてしまう(笑)。でも、審判の方がおもしろくなったんです。日本で、仕事としてバスケに関わるならコーチかトレーナーがいいだろうと思っていたんです。トレーナーは、現在のスポーツ界では重要性が高くなりました。20数年前ですから、まだ日本ではあまり知られていなかったと思いますが、NATA(全米アスレティックトレーナーズ協会)認定の資格があることは知識としてあったんです」。

 アメリカに行くことは、バスケに関わる仕事に就くためであり、どういうコースを専攻するかが悩みどころ。コーチやトレーナーはそれなりのコースがあるものの、審判を目指すコースは、バスケの本場アメリカと言えどもなかったという。そして、留学先に選んだのはミシガン州立大学だった。

 「そこはトレーナーの勉強ができる環境があり、バスケの強豪校です。親戚もミシガン州に住んでいましたから。トレーナーの勉強をしつつ、実際頭の中は審判のことでいっぱいでしたね(笑)。アメリカの審判も、大学在学中や卒業後、自分の仕事と並行してやるケースがほとんどですから、そこはある意味日本とあまり変わりありません。僕もトレーナーの資格を目指しつつ、審判をやっていたんです。ただ、トレーナーの勉強は大学の最初だけで、最終的にはマーケティングを専攻。ビジネスにも興味があってので、『マーケティング』を修了して卒業しました」。

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“サマーリーグ”という登竜門
 念願のアメリカ留学。NBAレフェリーへの第一歩を踏み出したはずだが、そもそも日本人がアメリカで審判をやるにはどういうステップを踏むのだろうか。言葉の壁はどう克服したのだろうか?

 「ミシガン州立大バスケット部とは関りがなかったんですが、審判としてミシガン州で活動し始めました。高校生の大会や、いわゆるクラブチームや大学の大会などです。そのために州のバスケットボール協会などに所属しなければなりませんが、ルールなどのテストを受けてからになります。言葉は完全なネィティブではありませんが、幸いなことに子どもの頃から英語を学ばせてもらったので、それがかなり助けになりましたから親には感謝ですね。
 その頃担当した試合数は、がむしゃらに頑張って吹いて4~50試合でしょうか。主に平日にゲームがありました。学生は勉強の合間をぬって、ビジネスパーソンなら仕事の合間をぬって、笛を吹くのが当たり前です。シーズン制ですから、夏はオフになりますが、このオフの過ごし方が重要なんです。NBAならサマーリーグがありますし、全米各地で審判向けのさまざまな講習会やキャンプが開催されます。大切な学びの時期で、僕も度々出かけて行きました」。

 審判として上のステージに立ち、職業として成立させるためには、多くのゲームを担当するだけではなく、夏にスキルアップ、キャリアアップを目指さなければならない。NBAレフェリーを目標にスタートした以上、夏場の活動こそが、その後の選択肢を大きく広げることにつながるのだ。

 「そうですね、ミシガン州内でもたくさんのキャンプや講習会があります。参加費を払ってそこに行きつつ、NBAの審判が講師をしてくれる講習会がフロリダやラスベガスなど各地で行われますから、それにも参加しました。そこでNBAの現役審判とのコネクションを築いたり、アドバイスをもらったり、とにかくそれの繰り返し。知識や経験、人脈を築くことがとても重要なんです。
 審判で食べていきたいとずっと考えていましたが、その頃のNBAの仕組みで言うと(今でも似た状況ですが)、まずサマーリーグで笛を吹けるようになるまでに少なくとも5~10年はかかるといわれていました。審判にとってもサマーリーグがNBAへのトライアウトなんです。大勢いる審判の中から、『サマーリーグで吹いてみないか』と声がかかるまでは、さっきも言ったように、何度もキャンプに参加して人脈を広げ、キャリアを積み、実力を認められなければなりません。たまたま見てもらえて、“こいつ良いな”って呼ばれる。当然、実力がなければダメですが、運も必要。5年でサマーリーグにたどり着くかもしれないし、10年かかっても目に留まらないかもしれない。経験も大事だけど、運も実力のうちだよって、よく言われました」。

 大学卒業後、マーケティング専攻のキャリアを活かして就職し、並行して審判の活動を続けた。その支えとなっていたのが「NBAで審判をやる」というモチベーション。大変な苦労があったと想像できるが、それでも夢を追い続けられた。

 「無我夢中でしたね。教わることばかりでしたし、楽しい……教わることが嬉しかったです。今は立場が変わって、伝える側になりましたが、僕が当時味わった楽しさや喜びは、常に伝えていきたいですし、できるだけ伝えられるよう努めています。それほど自分の中で、大きな柱になっているんです。結局、サマーリーグにたどり着くまでに8年かかりました。大学で過ごした時間を含めて8年です。正確な数字ではないですが、当時として少し早い方だったかなという印象ですね。国籍の壁などは基本的にはありませんが、同時期にアメリカ人以外で参加を許されたのは僕だけでした。それが、2007年の夏です」

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 「NBAで笛を吹く」という夢を持ちつつ渡米し、武者修行の末にようやくサマーリーグのコートに立った。ただ、今後の生活のことを考えれば、いずれは日本に帰ろうという考えが頭をよぎったのではないだろうか。ただ、別の理由もあって帰国することになった。

 「最初は日本に住むという考えは、一切ありませんでした。ずっとアメリカで生活をしようと思っていました。今でもそう、アメリカが好きなんです(笑)。帰るきっかけは、2007、2008年にサマーリーグに参加しましたが、その2年前に遡ります。NBAレフェリーになるために、2年間はNBAが指定したリーグでキャリアを積むようにと言われました。今はGリーグやWNBAなどですが、2年間はプロのリーグでキャリアを積み、その上でチャレンジする、そんなシステムが出来上がりつつあったんです。
 日本でbjリーグが立ち上がったのを知っていたので、当時NBAでお世話になっていた方に相談しつつ、2006年からbjリーグをお手伝いすることになりました。最初はそれが帰国のきっかけで、bjリーグで2年やったらまたアメリカへ戻るつもりでした。サマーリーグにたどり着けたのはbjリーグのお陰でもあったわけです」

 アメリカで人生の土台を築き、NBAのコートを目指す中、一時日本へ帰国した。そこで現在につながる、新たなモチベーションに気づくことになる。第2回「日本で気づいたモチベーション」に続く。