20シーズン目の新潟が
追い求める夢と使命

2019年10月03日



文:吉川哲彦/写真:B.LEAGUE、hangtime編集部

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 B.LEAGUEの2018-19シーズンが閉幕して1カ月以上が経った6月のある日、廣瀬昌也の姿は新潟市内にあった。廣瀬が暖簾をくぐったその先にいたのは約20人。かつてのチームスタッフや地元メディアの記者、現役の池田雄一らも駆けつけたが、廣瀬を含む7人はある共通の肩書を持っていた。

 現在青山学院大学男子バスケットボール部を指導している廣瀬は、かつて在籍したJBL大和証券の休部を受けて譲渡先探しに奔走し、既にJリーグでプロクラブ運営の実績があった新潟県のNSGグループへの譲渡を実現させた1人だ。自ら初代ヘッドコーチとして新潟アルビレックスBBを11シーズン率いたが、その新潟が昨シーズン45勝15敗という好成績でB1中地区を制覇し、クラブの新たな1ページを開いたことは周知の通り。

 躍進に導いた庄司和広ヘッドコーチと青木勇人アソシエイトコーチは、現役時代に廣瀬の下でプレーした新潟OBでもある。庄司は当時のチームの大黒柱、青木は大和証券時代から8シーズンにわたって廣瀬と苦楽をともにした間柄だ。

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2002-03シーズン、JBLプログラム掲載時の廣瀬昌也氏。

 新潟がJBLスーパーリーグに昇格し、あと1勝でプレーオフ進出と善戦した2002-03シーズンのロスターを見てみると、非常に興味深い顔ぶれが並ぶ。
#3 鈴木裕紀
#4 長谷川誠
#6 堀田剛司
#10 庄司和広
#11 藤原隆充
#12 平岡富士貴
#24 グレッグ・ストルト
#25 竹田謙
#31 小川忠晴
#33 青木勇人
#41 松本克也
#44 リン・ワシントン

 日本人選手は10人。そのうち、小川は一度離れた新潟に舞い戻って現在Wリーグ・新潟アルビレックスBBラビッツを率い、長谷川は2016-17シーズンまで3シーズン秋田ノーザンハピネッツを指揮、松本はB3の下に位置する地域リーグのナカシマ(岡山県)で45歳にして選手兼ヘッドコーチを務めている。藤原は昨シーズン限りでユニフォームを脱ぎ、群馬クレインサンダーズに残ってスクールコーチに就任することが決まった。

 そして竹田は、今シーズン開幕の10月に41歳の誕生日を迎える現役選手だが、2013-14シーズン終了後に一度引退し、2015-16シーズンにはWリーグ・デンソー アイリスでアシスタントコーチに就いている。残る5人はB.LEAGUEの現職5人。藤原だけは育成主眼の業務だが、当時の日本人選手全員がコーチ業を生業としていることになる。

 当時既にアシスタントコーチを務めていた寒河江功一(現西宮ストークスアシスタントコーチ)を含めれば、廣瀬はこのシーズンだけで実に11人ものコーチを育て上げたというわけだ。

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2002-03シーズンプログラムより、新潟アルビレックス(チーム名は当時)のロスター。

コーチのみが知るコーチの大変さ
 新潟での宴席を立案したのは長谷川と、19年前の創立時からクラブとの交流が深いブースター。席上、現在3×3日本代表アドバイザリーコーチの肩書を持つ長谷川は、“廣瀬昌也を囲む会”を開いた動機をこう語っている。

 「自分がコーチをやってみて、いかに当時廣瀬さんが大変だったかよくわかった。今これだけの人がコーチになっているチームは他にない。それはやっぱり廣瀬さんの下でプレーしたからなんじゃないかと思う」

 このチームは何故こうも多くのコーチを輩出したのか。当時を振り返った廣瀬の第一声は「熱かった」だ。

 「志を持って新潟のために、アルビのために頑張ろうという想いが強い塊だったと思います。2部(日本リーグ)にいた2年間は不安もあったと思うんですが、この年はスーパーリーグに上がって、プロ第1号としてこのチームがこれからの日本を変えていこう、バスケット界をけん引していくんだという覚悟が1人ひとりの中に培われていった。魂を持った集団だったという気がしますね。企業チームもプライドがあって、優勝したい想いはすごく強かったと思うんですが、我々はそこに“地元”とか“日本初”というプラスアルファの想いが芽生えてた。それがまた違ったチームパワーを生んだんだと思います」

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 企業形態のクラブがほとんどだった当時のトップリーグで、ホームゲーム開催に本腰を入れていたのは地域密着型クラブの新潟だけだった。アリーナMCやチアリーダーの採用、試合前の応援練習など、今ではどのクラブでも当たり前に行われているホームゲームの演出に力を入れた結果、新潟のホームゲームは他と一線を画す、独特の空気を醸し出す空間となった。

 クラブ創立当初は街頭でのチラシ配りに難色を示す選手もいたが、ホームゲームの熱気を目の当たりにするうちに、やがてそんな声は聞かれなくなった。「ファンあってのチーム、選手」ということを、身をもって知ったのだ。

 「これは長谷川の影響が大きいですよ。彼がファンサービスを率先してやった。プラス、練習前や練習後の過ごし方、周りから見られていることも含めて、プロとしてどうあるべきかを示した。長谷川誠の存在が他の選手の意識を変えていったことは間違いないです」

 長谷川に代表されるように、彼らは高い意識を持って取り組んだ。毎週末の試合が終わる度に、選手は居酒屋に集まって打ち上げを実施。最初のうちは他愛もない話で騒ぐが、時間が経つにつれて飲み会は試合の反省会に変わり、そこで出た意見を翌日廣瀬に伝えて話し合うのが慣例となった。時には酒席から廣瀬に電話をかけて呼び出すこともあったという。

 「『古町の#$%&って店にいるから!』って酔っぱらってもう何を言ってるかもわからないんだけど、『何時だと思ってるんだ!』『まだ3時っすよ!』『わかった、待っとけ!』って(笑)。僕の家にもよく集まってご飯を食べた。みんな給料が安かったから鍋でもしようって。ファミリーみたいな感じがありましたね」

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パイオニアの苦労と喜び
 選手以上に勝利に貪欲だった廣瀬は、選手の声にしっかりと耳を傾け、選手とともに歩んだ。男気のある廣瀬の熱や気迫に選手が引っ張られた側面も大きく、新潟で一堂に会して酒を酌み交わすのも廣瀬を慕えばこそ。廣瀬自身は「そんなことはないと思うけどね」と笑いながら、刹那に引き締まった表情を浮かべて「ただ……」と言葉を続ける。

 「僕らはとにかく荒野、不毛の地を歩いていかないといけない、止まることも戻ることも許されない、ここを切り拓いてプロという新しい世界を作っていくためには倒れるわけにもいかない。そういう強い意志、信念がみんなありましたよ。だから営業もやったしクリニックもやったし、スクールでも何でもやった。新潟県内くまなく歩き回りましたからね。選手たちはその苦労を経験している。だからみんなバスケットが今でも好きだし、コーチもやってるんじゃないかな。とくに僕はクラブの社員として内部にいたから、逼迫した財政なんかも知っていた。毎年崖っぷちで、これをなんとかしなきゃいけなかった。僕が慕われていたとは思わないけど、もしかしたらその必死さは選手たちに伝わってたかもしれないですね。パイオニアとしての大変さの裏にそれを乗り越えた時の喜びがあって、それが自分たちだけでなく周りも喜んで一体になれる。そのことを知ってるから面白いし、バスケットをやめられない。引退後もバスケットで飯を食っていくとなるとコーチをやるしかない。だから彼らにとっては、コーチをやることは宿命だったのかもしれないです。バスケットにかじりついて生きていく、その素地はみんな新潟で身についてますからね」

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 唯一コーチ同士で対戦の経験があり、「嬉しかったね。いいゲームしたんだよ、あいつ」と廣瀬も称えた松本、「絶対にコーチをやるだろうと思ってた」という平岡や鈴木、「プロは毎年が勝負だけど、彼はチームが変わってとくに今シーズンが勝負の年だね」という堀田など、やはり“教え子”は気になるというが、最も気にかけているのは言うまでもなく「おかげさまで年に1回は解説の仕事で行くこともできてるし、昨シーズンプレーオフ(チャンピオンシップ)に行ってくれたのは本当に嬉しかった」という新潟。今は2人の愛弟子がコーチを務め、自らが声をかけ続けていた五十嵐圭も加わったのだから尚更だ。

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 「昨シーズンは勝ちパターンができ上がってた。ポイントガードとセンターのラインを軸にしたバスケットを、最後に柏木(真介)というピースを加えて完成させた感じ。それをブレることなくやり通したから大したもんだなと思いましたね。庄司は選手の時も決して器用ではなかったし、一直線に行くようなタイプだったけど、采配も同じようにブレなかった。僕とは大違い(笑)。ただ、真価が問われるのは今年。ここが腕の見せどころだと思うけど、庄司は(青木)勇人が冷静な分析で的確なアドバイスをくれることに相当感謝してましたよ。良いコンビじゃないかな、現役時代からそうだったから」

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“日本初”プロバスケクラブの使命
 B.LEAGUEが着実に浸透し、女子代表の安定した強さに加えて男子代表も存在感が現れ始め、NBAプレーヤーも2年続けて誕生した。国内バスケ界への関心がかつてないほどに高まっていることは、もはや異論の余地はないだろう。ここに至る経緯を辿った時、日本初のプロバスケットボールクラブとして生まれ、国内初のプロリーグ・bjリーグ発足においても中心的役割を果たした新潟の存在を抜きに、今のバスケ界を語ることはできない。廣瀬もその自負を胸に、これからのバスケ界を見守りたい意向だ。

 「旧態依然の『プロはダメだ』という状況に風穴を開けた、そのきっかけを作ったのは間違いなく新潟でしょう。河内(敏光、現横浜ビー・コルセアーズGM)さんと当時のスタッフ、そして大和(証券)から残ってくれた5人の選手。特に、譲渡成立の条件が大和から5人残ることだったので、庄司、勇人、マツ、小宮(邦夫)、大渕(幹大)、この5人がいなければ何も始まらなかった。そこにまず感謝だし、あとはNSGグループも含めて、みんなの力があって立ち上がった。そこに少なからず立ち会えた幸せは感じています。僕のメジャースポーツの定義は毎日マスメディアに出ること、1億円プレーヤーが生まれること、ワールドカップやオリンピックに出ること。その3つはほぼクリアしたから、あとはオフシーズンでも毎日話題を提供できるようになることで、そのために何をしなければならないかだと思います」

 今シーズンは新潟にとって、クラブ創立20シーズン目の節目の年となる。チームは既に昨シーズン、地区優勝というインパクトを残した。そのチーム以上に、クラブとしてどのような施策でリーグ、そして日本バスケ界全体にインパクトを与えるか。日本初のプロクラブとして、新潟にはこれからも果たすべき使命がある。