“土台の世代”清水太志郎が振り返る
プロバスケ人生14年

2019年07月16日



文:吉川哲彦/写真:B.LEAGUEphoto_702986

6月末日で2018-19シーズンの幕を閉じたB.LEAGUEは、このオフも何人かの選手がファンに別れを告げることとなった。その中の1人、サンロッカーズ渋谷で現役生活を終えることを決断した清水太志郎は、bjリーグでもその11シーズンを全うした11人のうちの1人であり、プロとしてのキャリアは14シーズンに及ぶ。
長きにわたってプロバスケットボール選手を務め上げ、日本バスケ界のプロ草創期を知る清水のキャリアとはいったいどのようなものだったのか、本人に振り返ってもらった。(4月20日取材)

“プロ”として走り抜け、バトンを渡す
――まずは今回引退を決めた理由を教えてください。
 「悔いがないと言えば嘘になります。昨シーズンアキレス腱を断裂して、もうちょっと続けたいなっていうのはあったんですが、ベテランになればなるほど体を戻すのも時間がかかる中で、チームの来年のプレースタイルなどをヘッドコーチに尋ねた上で決めました。若い時から走るとか跳ぶとかが速いほうではなかったので、チームメートの力を借りながらプレーしてきたんですが、今はチームがドリブルを多く使って運動量で勝負する形になったので、それは自分のプレースタイルではない。本当は合わせなきゃいけないんですけど、この年齢からまたドリブル練習する気持ちにはなれなかったし、だったら僕の出ている時間を若い選手に譲ったほうがチームにとってプラスになるんじゃないかとか、いろんな要素がちょっとずつ積み重なって引退しようかなと思いました」。

――他チームへの移籍は考えませんでしたか?
 「考えましたね。折茂(武彦、レバンガ北海道)さんもそうだと思いますが、シューターは運動能力を武器にしないのである程度長くできる。まだやれるという気持ちもありますが、勝つチームでやりたいんですよね、大前提として。自分が移籍してそこで20分試合に出るとなったら、そのチームはやっぱりそれなりのチーム状況かなと思うんです。あとは、今までは家族のことは考えなかったんですが、上の子も小学校に上がったこととかいろいろ加味して、移籍してまで続けるべきかということもちょこっとだけ考えました」

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――キャリア全体を振り返ると、まず筑波大学を出て1年だけ大塚商会アルファーズ(当時JBL日本リーグ)でプレーされました。そこからプロに転向したのは「バスケで食べていきたい」ということだったんですか?
 「そういう意識は正直なかったです。プロっていうのがどういうものかがわからなかった。僕の場合、大学4年の時に大ケガをして、当時のJBLスーパーリーグに行けるチャンスもなくなったんです。それでどうしようか迷っていた時に大塚商会の当時の社長が『上を目指す』ということで声をかけていただいて。本当にラッキーな話だったんですが、実際に入ってみると社長が会長になって、その息子さんが社長になった。そこで『文武両道』に方針転換してしまって、仕事をしながらバスケをすることになったんです。

 配属されたのが一部上場企業を顧客にする部署で、最初の頃は先輩も『練習に行っていいよ』とは言ってくれていたんですが、やっぱり営業なので。『5時まで帰ってくるな』じゃないですけど(笑)、会社に戻ってメールを開くとたくさん来ていて、それをやり残したまま練習には行けない。そんな中、同期は活躍しているんですよ。わかりやすいところでは柏木(真介、現新潟アルビレックスBB)。試合もよく観に行ったし、なんなら前座試合をしたりしていて、『こんなに差はねぇのになぁ』って空しくなっちゃったんです。もちろん練習量は足りないんで、財産だけでやっていて『そりゃ上手くならないよね』と思って、それでもう一度バリバリ追い込んでバスケをやりたいと思ってプロに転向したんです」。

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情に抗わず、ハートを重視
――とはいえ、当時はまだプロ選手も少ない中で、リスクも考えたのでは?
 「親にはすごく反対されましたよね。僕も38歳まで“続けられた”ほうだと思うし、その後の人生のほうが長い。ましてや大塚商会はもう大企業ですし、それなりにちゃんと給料も貰える。でも、後悔だけはしたくないっていうのが小さい時からあって、高校進学の時も地元の高校に行くつもりで、最後の最後で小林高校に変えたんです。プロに転向する時も迷いました。安齋竜三(現宇都宮ブレックスヘッドコーチ)さんと大塚商会で一緒にやっていて、竜三さんはいち早くプロに行くって決めて退社したんですが、僕はギリギリのギリギリまで迷って最後はあまり良い退社の仕方じゃなかった。ご迷惑をかけたなと思います」。

――いざプロになってみると、bjリーグは試合や練習以外の活動も積極的にやっていたので、その点でもプロとしての心構えが求められたと思いますが……。
 「でも、プロの選手でしたけど会社の方と二人三脚でやっている感覚があって。フロントスタッフを含めて数人なんで、みんなが接する機会も多いですし、フロントの方が『申し訳ないけどやってくれないか』って結構気を遣ってくれていましたね。bjリーグはどこもそんなに多くのスタッフを抱えているわけではなかったので、『バスケットで飯を食わなきゃいけない』っていう中で、バスケだけやっていればいいっていう感覚ではなかったですね。そういうのも嫌いじゃないし、オフは自分でもいろいろやっているので、当たり前にやっていましたし、そんなに苦ではなかったです」。

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――キャリアの中で何度か移籍をされていますが、埼玉ブロンコスから宮崎シャイニングサンズに移籍する際が一番悩んだとお聞きしました。どういう経緯があったんでしょうか?
 「たぶんどの選手よりも情が深いっていうのが僕の性格としてあって、ブロンコスのほうが愛を感じたんです。5年在籍して、ブロンコスの顔として『なんとしても移籍を食い止める』っていう熱がすごくあって、年俸のオファーにも反映されていたりもしたんです。当時宮崎に口蹄疫っていう伝染病が流行った中で、それに対してどういう活動ができるかといろいろ案を出してくれたのも埼玉。宮崎のほうはチームができたばかりで『地元だから帰ってくるだろう』っていう安易な感じがあったんです。でも、やっぱり地元愛がじゃましましたね(笑)。まさか潰れるとは思ってなかったんですけどね」。

――結局2シーズンで宮崎を離れて大分ヒートデビルズに移籍しましたが、その大分でも運営会社の経営難がありました。ただ、その時は一旦大分に残られましたね。
 「宮崎に移籍する時は『清水は宮崎の出身だから』ってあまり声をかけてこなかったんですが、大分の時は10チーム以上話が来て、リーグの中でもわりと裕福なチームからもあったんですが、金額もそこまで違うわけでもないし、やっぱり気持ちのほうが優先しました。まず確認したのは、救済なのか引き抜きなのか。腹の探り合いみたいなあまり好きじゃないこともして、そこで引き抜きと言われて『じゃあこのオファーはのめません』って、その繰り返しでした。やっぱり気持ちよくやりたいんです、そのチームのために。お金はちょっと下がっても活躍すれば取り返せるもんだと思っていましたし」。

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「土台」としてやり遂げること
――その後ライジング福岡(クラブ名は当時)を経て、B.LEAGUE発足のタイミングでSR渋谷に移籍されました。
 「リーグの振り分けの時に、プレシーズンゲームか何かで鹿児島に行った帰りのバスの中で『(福岡は)3部らしいよ』って話が出て『嘘でしょ?』と。あの絶望感は忘れられないですね(笑)。その中でサンロッカーズからのオファーというのは、自分のチーム選択基準を変えてしまうくらい魅力的でした。企業チームですし、環境もbjリーグで与えられていたものとは全然違うというのと、もう35歳だったんで1部でやりたいというのが理由でした。
 ベテランになってからの移籍で言うと、柏木なんか良い例ですよね。新潟に行った途端にああやって地区優勝にも貢献して。新天地で同期が活躍してるのは嬉しいですよ。モチベーションを保つ上ですごく刺激になりました。富山グラウジーズに移籍した(山田)大治を見ていても、頑張ってるなぁ、自分も置いていかれないようにしなきゃって思いましたしね」。

――振り返ってみて、プロとしてあるべき姿みたいなものにどれだけ近づけたんでしょうか?
 「どうですかねぇ。ただ目の前のことを一生懸命やってきただけで。B.LEAGUEが成功してるなんて言いますけど、たかが3年で成功って何なんだろうって。いつどうなるかわからない中で、僕は土台の世代なんで、ちょっとでもフロントやチームの手助けになればいいと思います。特にサンロッカーズはもともと企業チームで、選手たちはプロとしてどう活動していいかわからない。そのお手本というか切り口になればいいかなと思いますね。そのことで言えば、新潟の庄司(和広)ヘッドコーチと埼玉で一緒だった時に『イベントやクリニックは面倒くさがらずに行けよ』と言われたのはよく覚えています。あの人は、最初は怖かったんですけど(笑)、本当に後輩の面倒見も良いし、日本代表の経験もある。そういう人と一緒にやれたのは財産になりました。でも、すごく気を遣う人で、ヘッドコーチになられてからは僕にもそんなに気を遣うの? とは思いました。あれ? 今敬語使った? って(笑)。昔はプライベートでゴルフに行ったりもしたので、僕が引退してその頃の関係性に戻ってくれれば良いんですけどね」。